中国残留帰国者問題の研究 ーその現状と課題ー
第3章 中国残留帰国者等への支援策の実態調査
3-10 中国残留帰国者等からの聞き取り調査
新しい支援制度の評価をし、課題などを明らかにするためには、政策の立案や事業の実施側からの視点だけでなく、実際に支援を受ける当事者である「中国残留帰国者」や「その2世」から話しを聞くことは非常に重要である。
筆者は、足立区内に在住・在勤の中国残留帰国者8名、およびその2世4名(内 足立区外1名)より直接、聞き取り調査を行った。
3-10-1 中国残留帰国者からの聞き取り調査
事例① 足立区南花畑在住 82歳 女性
中国残留婦人。
日常会話は日本語で話すことができる。
出身は品川区で、1944年、当時19歳で両親、6人の兄弟とともに第13時東京開発団として、中国に渡った。
父は中国で病気により死亡、母は逃避行中に暴民化した中国人やソ連軍などに襲われ殺害され、弟と共に強制労働を強いられた。その後、中国人と結婚し、11人の子供を授かる。
中国では、政府からの依頼により、中学校で日本語の教師として6年ほど勤務した。教師の資格を持っていたわけではなかったので、中国人に日本語を教える為、猛勉強をした。
仕事をしていたものの、中国での暮らしは、貧しい方だった。
1975年の11月に一時帰国した。翌年、「帰りたくない」という強い思いがありながらも、子供達(11人)を中国へ残していたため、後ろ髪を引かれる思いで泣く泣く中国へ戻る。
1986年4月に、未成年の子供2人を連れて、3人で帰国した。(国費)
当時、旅館を経営していた伯母の連絡先は分かっていたが、両親が亡くなったことを含め、連絡を取っていなかったため、行方不明者とされていた。
そのため、帰国した際に、家庭裁判所に戸籍の復活届を提出し、日本国籍が復活できた。
帰国後は、江戸川区常盤寮(14)で半年間暮らした。
当初は、日本語と中国語の2ヶ国語が堪能とのことで、政府の調査員の通訳として仕事をしていた。
日本へ帰国させた子供達は、都立の短期大学を卒業し、それぞれ、民間企業へ就職をした。現在、印刷会社と電子会社に勤務している。
子供達は、日本人と結婚をし、子供に恵まれ、現在、小学5年生と小学1年生の孫がいる。日本で生まれた孫達は、日本人と何ら変わりない安定した生活を送っている。
9人の子供は、中国でそのまま暮らしており、数年前、夫は中国で死亡した。
アンケート
①帰国後、苦労した点、困った点は何か。
・経済的な問題。・・・お金が足りない。
・子供の教育。・・・給付金額が足りないので、子供達には奨学金やアルバイトで大学を卒業させた。
②2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・金額的に不十分。
・生活保護の制度、金銭的にぎりぎりの生活だったので、よくない。
・困った時の相談体制については、相談したことがない。
③2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・金額的に十分。
・困った時の相談体制は、通訳派遣事業で派遣員が自宅に個別訪問をしてくれているので、満足。
④地域社会との交流はどのようにされているか。
・近所づきあいは、ほとんどない。(中国残留帰国者に対する、国民の理解がない。自分から望んで中国人と国際結婚をした人と言われ、侮辱されたこともある。)
・帰国者同士で、連絡は取り合っている(帰国者の会)。
⑤今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・通訳派遣事業の派遣員の訪問の日にちを増やしてもらいたい。
・この制度になって感謝をしている。
当時の満洲国での開拓団の逃避行の話しは、筆舌に尽くしがたい、想像を絶するものである。絶望的な状況下での中、その日その日を生きる為に中国人と結婚し、青春を謳歌することもできなかった壮絶な人生の「心の叫び」が刻まれていた。
事例② 足立区六木在住 84歳 女性
中国残留婦人。
日常会話は日本語で話すことができる。
17歳の時、両親と共に満州に渡った。その後、両親は日本に帰国したが、自ら中国へ残り、ビリヤードと写真館の手伝いをし、日本に戻った両親へ仕送りをしていた。2年間働いた後、一時期、日本へ帰国する。
日本に帰国していた際に、日本人と結婚をするが、夫はフィリピンで戦死した。
終戦後は、中国で仕事をしていたため、そのまま中国残留婦人となった。
終戦後、収容所に半年間収容されていた。その後も中国の厳寒で生活や食糧不足等で苦労をしている。
その後、中国人と結婚をし、5人の子供を授かった。(子供達は、現在、60歳〜47歳である)。
中国では、夫と共に、靴の修理、駅の荷物運びなどの肉体労働を行っていたが、中国での生活は、貧しかった。
1975年の一時帰国した。
「日本にずっといたい」という気持ちが強かったが、中国に子供達を残していた為、泣く泣く中国へ戻る。
1980年に、未成年の子供を連れて、夫婦で帰国した。(国費)
帰国後は、先に帰国していた中国残留帰国者の友人の紹介で3年ほど、病院に勤め自活していたが、病院を辞めてからは、生活保護を受給した。
1986年に上京した。
中国に残してきた子供達は、自分が帰国した後に、全員帰国させた。
子供達は帰国後、昼はアルバイトをし、夜は足立区第4中学校で日本語を勉強し、今では日本語が普通に話せる。 5人の子供のうち、4人は中国で中国人と結婚、一番下の子供は中国残留邦人2世と結婚し、現在、孫9人(37歳〜16歳)、ひ孫8人(13歳〜4歳)に恵まれている。
1999年に夫が死亡。
現在、孫達は、新聞社(配達員)、証券会社、足立区役所等に勤務している。
アンケート
①2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・中国での生活がとても苦しかったので、金額的に十分。
・日本語学習支援制度があっても、夫が中国人の為、本人が日本語を取得する意欲がなかった為、最後まで、日本語が話せなかった。
・就職支援については、十分でない。就職の斡旋が全くなかった。
・生活保護の制度自体は、中国での生活を考えると、制約があっても最低限の金銭的保証はあったので、悪くはない。
・困った時の相談体制は、不十分。
②2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・金額的に十分。
・困った時の相談体制は、相談したことはない。
言葉の面では不自由はしていないし、分からないことがあれば自分で聞いて解決できる。
③地域社会との交流はどのようにされているか。
・近所づきあいは、都営住宅なので、掃除の当番等で交流している。
・地域の行事、イベントに参加をしている。
・自治体が開催するイベントには参加をしていない。年なので、体が思うように動かなくて億劫。
・帰国者同士で、連絡は取り合っている。(帰国者の会等)
④今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・足立区の中に中国残留帰国者同士が集えるコミュニティーがないので、今後、足立区内に帰国者が集えるサロンが欲しい。
・この制度になって、感謝している。
同行した、2世の支援相談員との話の中で、江戸川区の常盤寮で生活をしたという話から、互いに共通した友人(中国残留帰国者)がいることが分かった。
支援相談員の配偶者の家族と知り合いだったとのことが判明し、この調査から新たなつながりが生まれた。
事例③ 足立区舎人在住 65歳 男性
中国残留帰国者2世。
日常会話は中国語で話す。日本語も話せるが、会話中、理解できないところもある。
両親は香川県出身で、石炭の設備技術者をしており、貿易会社の経営者でもあった父親の仕事の関係で、1937年に中国に渡り、本人は中国で生まれた。兄弟は3歳違いの妹がいる。
父親は終戦間近に日本へ単身帰国し、その後、日本で新しい家庭を築き、音信不通になった。
終戦後、中国に残り、中国で大学を卒業し、中国人(大学卒)と結婚した。
中国では、中国社会学院(研究室)で陶芸等の研究をしており、著書もあり中国での暮らしは豊かな方であった。
1975年頃、日本への一時帰国等の情報が入らず、中国で生活をしていた。
1985年に母親が死亡。その後、妹は日本に帰国した。
1986年、父親の友人の助けで帰国をする。(国費)
帰国後は、国の定着促進センターには入らずに、父親の友人に保証人になってもらい、帰国3日後には、電気技師として就職をしたが、言葉が通じず、当初は大変であった。妻も同じ会社の清掃業務に就くことができ、求職での苦労はなかった。
夫婦共稼ぎで、年間750万円ほどの収入があった。
帰国後は、赤羽に2年在住、足立区には、平成2年から18年間住んでいる。
子供は、帰国当時、13歳と18歳であったが、日本の学校を卒業させ、それぞれ中国の大学とイギリスの大学に進学した。現在、子供達(41歳、34歳)は香港の貿易会社に就職をし、もう一人はイギリス人と結婚、ロンドンに在住している。(孫は8歳と9歳。香港とロンドンに在住)
日本で64歳まで仕事をし、夫婦共稼ぎで、生活保護は受けずに、自立した生活を長く送っていた。
現在、妻が脳こうそくで倒れたため、妻の看護をしている。
家賃19000円の都営住宅に居住をしているが、年金、支援給付金の他、子供達からの仕送りもある。
アンケート
①帰国後、苦労した点、困った点は何か。
・言葉の問題。・・・帰国後すぐに仕事に就いたため、日本語の学習は自学自習だった。
・経済的な問題。子供の教育。・・・大学に進学をさせる為に、夫婦で身を粉にして働いた。
・帰国してから、日本の地域社会に入るのは難しく、日本人には心の豊かさがない。今でも、地域のコミュニティーに溶け込むことも大変である。
②2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・金額的に不十分。
・生活保護の制度を受給することは、はずかしいことだ。
③2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・金額的に十分。2人で20万以上もらっている。
・困った時の相談体制は、通訳派遣事業で派遣員(中国人)が自宅に個別訪問をしてくれているので、満足。
・近所づきあいは、あまりない。
・帰国者同士で、連絡は取り合っている。(帰国者の会)
・以前の支援策は、きめ細かさがなく不十分なものだった。しかし、今の新しい支援策は問題がない。
④今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・帰国してからずっと、子供を中心に仕事をしていたので、今からでも日本語の勉強を始めたいが、足立区は中国残留帰国者が多く在住しているのに、中国残留帰国者が学べる日本語の教室がない。
・中国残留帰国者1世の年齢が高くなっているので、中国残留帰国者同士が気楽に集える地域のコミュニティーが欲しい。今後、各地域に、料理教室、太極拳などを楽しめるクラブ、サロン等を作ってもらいたい。
・我々は、一旦政府から棄民扱いをされたにも拘わらず、日本政府から謝罪がない。
子供は未来への投資という強い意志が感じられた。中国残留帰国者2世であり、今でもあまり日本語が得意ではないが、夫婦共稼ぎで、自立して生活をしてきた人である。
事例④ 足立区青井在住 67歳 男性
中国残留孤児。
日常会話は中国語で行っている。
1940年に、中国遼寧省大連市で生まれたが、生後5カ月で終戦を迎え、中国人夫妻の養子となった。
1959年に、中国の高校を卒業し、テレビに内蔵されている小さな部品を作っている企業に就職しが、中国での暮らしは、貧しい方であった。
妻は、中国人で、4人の子供に恵まれた(現在、長女26歳、長男24歳、次男21歳、次女)。
1989年に、当時すでに結婚をしていた長女を除き(その後、自費で帰国)、他の子供達、養母と妻と一緒に6人で帰国した。(国費)
日本に帰国してから1ヵ月程仕事をしたが、就労先の倒産により失職し、生活保護受給となった。
帰国して、生活の上で一番困ったことは言葉の問題であり、今でも日本語があまり話せない。
子供達は日本に帰国後、栃木県にあるカーテンの製縫工場へ就職をし、2時間30分かけて(毎朝4時過ぎに自宅を出ていた)出勤していたが、7カ月で退職した。
現在、長女は民間会社の正社員で管理職に昇進し、長男はラーメン屋を開店、次男は高速道路の清掃をし、次女はうつ気味であるため、短期のアルバイトをしている。
アンケート
①2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・金銭的に十分でなかった。
・日本語の学習等、不十分。
・就職支援については、不十分。
・生活保護の制度自体は、よくなかった。
・困った時の相談体制は、不十分。
②2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・生活をする上で、贅沢はできないが、金額的には十分。
・困った時の相談体制は、十分。
③地域社会との交流はどのようにされているか。
・交流があれば外に出たいが言葉が出来ないので、ほとんど交流がない。
④今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・各自治体が行っている制度についての簡単なパンフレットがあると良い。
子供達は、それぞれが自立しているが、日本社会に順応できた子供もいれば、そうでない子供もいる。
この家族のように、中国残留帰国者の中には、生活習慣や言葉の壁などで日本社会にうまく適応できず、精神的な負担によってうつ病等の疾患を引き起こし、定職につけない中国残留帰国者が多いようだ。
事例⑤ 足立区花畑在住 82歳 女性
中国残留婦人。
日常会話は日本語で行う。
鹿児島県生まれで、8人兄弟の3女。1942年、17歳の時に電信電話㈱に就職し、中国金洲の電報局に勤めた。
当時、南京郵電大学の教授をしていた中国人と結婚し、子供4人を授かる。(孫は8人)
終戦後も中国に残り、25〜26歳頃、中国政府の指令により、大学や中国の病院の医師に日本語を教える。
その後、日本語、英語、韓国語の辞書を夫婦で作成をしていたが、文化大革命の時にスパイ扱いをされ、夫は拷問を受け、子供達(当時、高校生、中学生、小学5年生)は、農村へ連れて行かされ、強制労働を強いられた。このことがきっかけとなり、日本名から中国名に名前を変えた。
暮らしは決して裕福ではなかったが、夫が大学教授であったので、住居は大学の中にあった。
1973年、実家の両親から旅費を送金してもらい、日本へ帰国する。
当初は、日本のお金の扱いが分からず、一人で買い物にも出かけられず、身内に同伴してもらっていた。
帰国半年後、厚生省で1年間、中国残留帰国者向けの通訳のアルバイトをした。その後、鹿児島県の地元の人の紹介で、貿易会社に10年間勤めた。この間、中国語の能力を生かし、中国へは何回も出張している。
帰国して5〜6年後から、子供達が一人ずつ日本へ帰国した。夫は一番最後に帰国した。
これから夫と一緒に穏やかな生活を送ろうと思っていた矢先、夫は帰国1年後に病気で死亡してしまう。
現在、子供達は鹿児島県の役所で通訳をしたり、貿易会社などに勤めている。
アンケート
①2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・金銭的に不十分。
・生活保護の制度自体、よくなかった。
・困った時の相談体制は、不十分。
②2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・贅沢はできないが、金額的には十分。
・困った時の相談体制は、十分。
③地域社会との交流はどのようにされているか。
・ほとんどお付き合いがない。
④今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・子どもたちは自立したが、1か月に1度か2度会う程度で、寂しく孤独である。
・自分はどんどん年をとり、なかなか広範囲に移動ができない。
・同じ苦労を共にした帰国者仲間と語り合ったり、一緒に何かをしたい。
・地元の病院に診察をしてもらったが、窓口対応が徹底されていないため、診療代の請求をされ、不遜な態度をされた。(中国残留帰国者支援制度として、病院にかかる時には、確認証を提示すれば無料になる)
日本に帰国した夫と、仲良く余生を過ごしたいと思っていた矢先、夫は帰国後1年で病気により死亡した。子供への思いも強く、日本に帰国してから子供達を日本へ呼び寄せるまでの間、ぎりぎりの生活をしながら、常に仕送りを続けていた話しは胸を打つものがあった。
帰国後、職業婦人として歩んできた道のりは華やかでありながらも、半面、中国に残してきた家族をいつも思いながら慎ましい生活をしてきたようだ。
今後も積極的に外に出て、人との交流を持ちたいという気持ちがあり、早期の地域交流事業を待ち望んでいる一人である。
事例⑥ 足立区江北在住 66歳 女性
中国残留孤児。
日常会話は中国語で行い、日本語は片言である。
終戦時(3歳の頃)、逃げる際に母親と母の背におぶされていた妹は、銃弾を受け死亡し、本人は、銃弾を受け腹部を貫通していたものの、黒龍江省林口で、中国人夫妻に拾われ、養父母の9番目の子供として、実子のように大事に育てられた。
養父母から、当時の事を聞かされて育ったが、当時の事はまったく覚えていない。
養父母の暮らし振りは豊かではなく、7番目の子供までは学校には通っていないが、一番下の実子と本人のみが小学3年生まで学校に通わせてもらった。
養父母は中国で農業をしており、学校を途中辞めた後は、家業を手伝っていた。
25歳で中国人と結婚をした。子供は3人(現在、42歳、40歳、36歳)。孫は4人(現在、大学2年、中学3年、中学2年、小学5年生)いる。
夫は、中国では、食料品関係の会社に勤務していた。その後、夫の会社に勤める。
養父母が死亡。
日本では、身内が全く見つからない状態であったが、実の両親が生まれ育った日本へ行ってみたいという強い思いで1992年に、夫と未成年だった次男を連れて3人で帰国した。(国費)
日本に帰国後、当時、お世話になった弁護士から「中国と日本」という意味で、中本という苗字を考えてもらった。
帰国2年後には、長男が、4年後には長女が帰国した。
帰国当初は、4か月間、所沢の定着促進センターへ入所した。
その後、足立区に定住し、生活保護を受給しながら生活をしてきた。
定着促進センターを退所後、夫は1年間、中国帰国者自立研修センターの日本語教室に通ったが、本人は、喉の手術のため、2か月間のみ通学した。
その後は、技術専門学校でタイル施工の技術を学び、印刷会社に就職をした。
ただし、この技術専門学校の技術が直接就職に結びついたものではなく、肉体労働の仕事に就職した。(専門学校を終了すると、訓練で得た資格や技能により、就職しやすくなったり、条件の良い職場に就職できる可能性が大きくなるはずだが、実際は、取得する技能と就職が結びつかない現状がある。ただし、この間、訓練手当が支給される。)
帰国してから7年後、仕事先で夫が脳溢血で倒れ、それ以来、仕事はしていない。
帰国した子ども達は言葉の問題があり、およそ半年間就職できなかった。
現在では、長女はクリーニング屋でパートをし、長男は、機械の部品を作っている工場で仕事をし、次男は、溶接の仕事をしている。
本人は、帰国後は夫の職業学校の友人の紹介で、大久保と新宿で3〜4年間、清掃関係の仕事をしていた。
仕事をする上で、言葉の問題があったが、一生懸命仕事に励んでいたので、周囲からは認めてもらえた。
帰国して生活の上で一番苦労したことは、言葉の問題、それによる仕事の問題である。また、賃金が安いことから、生活をするのが大変だった。
子ども達が帰国しても、言葉の問題により、半年間、仕事に就けなかった。
役所の手続き等は、役所の職員が親切に手伝ってくれたので、苦労を感じたことはない。
アンケート
①2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・金銭的に十分でなかった。中国での生活の方が、暮らし振りはよかった。
・日本語の学習等は、不十分。
・就職支援は不十分。
・生活保護の制度自体、よくなかった。
・困った時の相談体制は、不十分。
中国帰国者の会の会員でもあったが、あまり相談ができなかった。
②2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・贅沢はできないが、金額的には十分。
・困った時の相談体制は、十分。
・今までの古い制度では、通訳派遣がなかったので、病院に行っても医師と意思疎通ができず、理解できないまま、もらった薬をただ飲むだけであった。
・今では、通訳派遣制度ができたことにより、自分が一番言いたいことを医師に伝えることができ、精密検査まで受けることができるようになった。
・今の制度になって、病気になっても以前よりかは、安心していられる。
③地域社会との交流はどのようにされているか。
・ほとんどお付き合いがない。
・足立区では、相談員がすぐに相談に乗ってもらえるので、今では安心感がある。
④地域社会での交流はどのようにされているか。
・挨拶程度で、ほとんどお付き合いがない。
・所沢で同じ地域に住んでいた帰国者(現在、新潟、北区に一人ずつ)や日本語教室で知り合った帰国者(1人)と連絡はたまにしている。
⑤今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・まわりの人たちが、自分達を難民扱いしている。嫌がらせを受けたこともある。もっと、中国残留帰国者に対して理解をしてもらいたい。
・夫を一人にして外出ができない(痴呆症がある為)ので、夫と一緒にいけるような距離に中国帰国者同士が集える場所が欲しい。
中国では、実子のようにかわいがられ、今でも、中国の兄弟とは仲が良い。日本で肉親が見つからなかったことは、残念である。
事例⑦ 足立区西保木間在住 65歳 男性
中国残留孤児。
日常会話は中国語で行い、日本語は片言しか話せない。
北海道旭川市春光台生まれ、家族で中国に渡る。
終戦時、両親は収容所に隔離され、わが子を生き延びさせるために中国人の養子にした。
戦後の混乱の中、両親と兄弟は帰国した。
養父は獣医の仕事をしていたが、8歳の頃、養父が亡くなり、養母は家財道具をすべて売り払い家計の足しにしながら生活をしていた。
中国では中学校を卒業したが、日本人ということで、定職には付けず、食品家計のアルバイトの仕事をしていた。文化大革命の時には、農村で強制労働を強いられたが、ここで妻(中国人)と知り合い結婚をする。
中国にいる時には、政府から、中国籍に変わるか日本国籍のままか、選択を迫られたが、日本国籍を持っていればいつかは帰国できることを信じ、中国籍に変わることを拒否した。
その後、日中孤児問題連合会へ手紙を書き、日本への帰国と両親探しの調査をしてもらうが、その結果、自分の戸籍が死亡扱いになっている事が判明した。
1980年に、妻と子供4人(現在、43歳、41歳、39歳、38歳)を連れて帰国した。(国費)
帰国した時、子供達は小学1年生、3年生、6年生2人であった。
(帰国の際には、両親と抱き合う姿が新聞に大きく報道されている。)
親族が判明したこともあり、定着促進センターには入所せず、すぐに北海道で生活を始める。(日本語は語学教室には通わず、生活しながら覚えていった。)
北海道では、市営住宅へ居住し、すぐに生活保護を受けた。帰国当初は言葉の問題があり、うどん屋でアルバイトをしていた。
その後、妻と子供を北海道へ残し、当初は本人のみ、上京した。
1年間職業訓練学校にも通い、溶接の技術を得て、職業訓練学校卒業後は建設設備の仕事に就いた。その後、溶接関係の職場に転職した。
妻は、病院での清掃をして生活費の足しにしていた(月給7万円程)。
帰国後、親族は温かく迎えてくれ、子供達も学校の先生方の熱心な指導のもと、日本語には全く問題がない。現在では、長男は自衛隊に進み、次男はバス会社の管理責任者、長女は准看護士、次女は看護婦として活躍をしている。
子供達は就職、結婚も問題なく、日本人の配偶者と幸せな結婚生活を送っている。
現在は、妻と2人暮らしだが、老後の不安もあり、子供達が住む、北海道に転居することを希望している。
アンケート
①2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・金銭的に不十分。
・日本語の学習等は、不十分。
・就職支援は不十分。
・生活保護の制度自体、よくなかった。
・困った時の相談体制は、不十分。相談体制があるか否かわからなかった。
②2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・金額的には十分。
・困った時の相談体制は、十分。
③地域社会との交流はどのようにされているか。
・挨拶程度であまりない。
④今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・周りの方々の理解がない。差別をされているようだ。
帰国するまでの貴重な沢山の資料を保管していた。東京にある支援交流センターでも、中国残留帰国者の貴重な資料を集めており、この方にも資料の提供を進めた。
子どもたちは、地域の方々の支援や学校の指導により、全員、日本社会へ順応でき、日本人と変わりなく生活をしている。
事例⑧ 足立区関原在住 78歳女性
中国残留婦人。
日常会話は日本語で行う。
1930年、東京都目黒区に生まれる。5人兄弟姉妹の長女。当時は、恵まれた家庭だった。
1944年、13歳の頃、両親と弟3人、妹1人の家族7人で、第13次興安東京荏原郷開拓団(父親が部落長)として満州に渡った。
当時の満洲国での開拓団の逃避行の話しは、筆舌に尽くしがたい。匪賊の襲撃により、絶望的な状況下での中、多数の死に際を目撃しながら両親と生き別れになりながらも、3歳の妹を背におぶって、生きる為に逃避行を続けた生きざまは、阿鼻叫喚の巷である。
その日その日を生きる為に、妹を連れて中国人の家庭で働いた。
労働に耐えかね、妹を連れて厳寒の中、決死の逃亡をし、「いつかきっと、必ず日本へ帰るのだ」という固い決意と幼い妹を守ろうという決心から、生きるために、1946年に中国人の夫と結婚した。その後、子供3人(現在、40歳代〜60歳)、孫3人を授かる。
1962年にハイラルに移住し、周りの中国人から嫌がらせを受けながら、50年間中国で暮らした。
夫は穀物等の配給所の主任を務め、本人は青物の引き卸会社に勤める。
店頭販売や会計の仕事をしながら、55歳で定年を迎えるまで勤め上げた。
定年後は、ボランティアのような形で仕事を続けた。人の2倍も3倍も仕事を頑張ってきたので、会社からは、絶大な信頼が得られたという。
1972年、田中元総理大臣が中国を訪問し、日中友好が結ばれるようになり、ハイラル近辺を訪れる日本人観光客も現れ、観光客の通訳を務めるようになる。
1975年に、中国残留婦人の一時帰国の旅費を日本政府が出すようにもなり、5か月間、当時14歳と11歳の二人の子供を連れて一時帰国した。
1989年10月、春陽会の一時帰国団の一員として2度目の帰国。
公費の一時帰国のチャンスがあったが、日本の身内の反対でかなわず、中国残留帰国者の帰国活動に早くから取り組んでいたボランティア団体、春陽会の一時帰国団に加わることとなった。日本の両親は、本人の帰国を嫌って、手続きをしなかった。(夫はこの頃、中国で死亡)
この一時帰国の2年後、永住帰国を決意するが、肉親は身元引受人にはなってくれなかった。
1994年に永住帰国(国費)したが、生活保護者を受けていたため、子供達はすぐには帰国できなかった。
本人は身元保証人になれなかったために、ボランティアの日本人に身元保証人を引き受けてもらい、子供達、孫(8歳、9歳、18歳)、全員が帰国。
当初、子供達は言葉の問題で大変だったが、工場に頼み込んですぐに仕事に就いた(低賃金)。
帰国当初は、中国残留帰国者の相談に乗り、依頼があれば小学校、中学校、高校での講演を行い、ボランティア団体の中国語通訳を引き受けるなど、忙しく過ごしていた。三互会(中国残留帰国者の会)や孫が通っていた小学校や葛飾区、足立区の区立中学校で、4度、講演をしたことがある。また、最近ではNHKの取材も受けている。
帰国以来、戦後の苦労を一般国民及び肉親に理解してもらえない不満を抱き続けているが、50年間ずっと帰りたかった日本に帰ってこれてよかったという思いがある。
アンケート
①2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・金銭的に不十分。中国での生活は一軒家に住み、いい暮らしをしていた。
②現在は、都営住宅。
・生活保護の制度自体、よくなかった。
・困った時の相談体制は、不十分。
③2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・金額的には十分。
・困った時の相談体制は、十分。
④地域社会との交流はどのようにされているか。
・帰国者同士で連絡を取り合っている。
中国残留帰国者同士で設立した、三互会の婦人部で活躍をしていた。
⑤今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・特に要望はない。
帰国後、通訳などの仕事を通じて、中国残留帰国者に対しての支援を積極的に行っている。今でも、各地域の講演会や取材などを行い、精力的に活動している。帰国者の会の婦人部長もしていた。
3-10-2 中国残留帰国者2世からの聞き取り調査
事例① 35歳 女性
中国語、日本語が堪能である。
母親は中国残留婦人、父親は中国人で3人兄弟(兄47歳・姉45歳)である。
5歳の頃、一時帰国をし、親戚の自宅(四国 香川県)に半年間在住していた。
その後、1987年に、父、母と3人で帰国した。(中国での暮らし向きは、普通であり、兄弟は中国で結婚をし、中国に住んでいる。)
帰国時は江戸川区にある常盤寮に半年在住し、その後は都営住宅に移り、公立中学、都立高校、短期大学へ進んだ。
短期大学を卒業後は、就職活動をし、外資系の銀行に6年間勤めた。
結婚、妊娠を機に退職をしたが、派遣社員として都市銀行へ就職をし、今年から足立区役所で非常勤として、1週間に30時間の中国残留帰国者の支援相談員をしている。
夫は中国残留邦人2世である。
結婚問題として、1世の親が求めることは、日本語が不自由なために、中国語が話せて、中国残留邦人の理解がある人を求めるそうである。
現状では、中国残留邦人1世2世3世が集える場がないとの話があった。
アンケート
①帰国後、苦労した点、困った点は何か。
・言葉の問題。
・生活習慣の違い。
②2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・金額的に十分でなかった。
・日本語の学習等は、十分でなかった。
・就職支援等は十分ではなかった。
・生活保護の制度は、自由にできず、ずっと制約をされていてよくなかった。
・困ったことがあった時の相談体制は、十分ではなかった。
③2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・金額的に十分。
・日本語の学習等は十分である。
・就職支援等は十分ではない。
・困ったことがあった時の相談体制は十分である。
④地域社会との交流はどのようなされているか。
・積極的に近所の方とお付き合いをしている。
・地域の行事、イベントには参加をしている。
・自治体などが開催するイベントには参加をしている。
・帰国者同士では、連絡を取り合っている。
⑤今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・足立区では、都内で2番目に帰国者が多くいる地区なので、区内で日本語教室を開設できると、帰国者本人たちが高齢なので、便利になるかと思う。
・言葉の壁を壊し、周りにいる人ともっと触れ合えるように、料理教室、経験交流会、小中学校で残留邦人に戦争の話しを語ってもらう場を作ってもらいたい。
・従来、帰国者の人権は無視され、社会から孤立されてきたという思いから、今後、この観点から、もっと帰国者に社会で自信を持ち、自立ができるように支援活動ができるようにしてもらいたい。
中国語と日本語が堪能で、足立区の福祉部自立支援課の中国残留帰国者の支援員としても有能な人物である。一日でも早く、中国残留帰国者の方々にとって安心できる足立区をつくっていきたいという気持ちでいる。
事例② 41歳 女性
中国語、日本語が堪能である。
母親は中国残留婦人で、父親は中国人、3人兄弟がいる。
中国の大学を卒業後、就職、中国人と結婚をした。
中国で仕事をしていたが、1992年4月に退職し、日本へ帰国した。中国での暮らし向きは、普通だったという。
中国人の夫が、日本の生活に慣れないことで離婚。
帰国してからは、言葉の問題があり、すぐに仕事が見つからなかった。
現在、小学6年生の女の子を抱えたシングルマザーとして、今年から足立区役所で非常勤として、1週間に30時間の中国残留帰国者の支援相談員をしている。
アンケート
①帰国後、苦労した点、困った点は何か。
・言葉の問題。
・仕事の問題。
・子どもの教育
②2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・金額的に十分ではなかった。
・日本語の学習等は、十分ではなかった。
・就職支援等は十分ではなかった。
・生活保護の制度は、十分ではなかった。ケースワーカの対応が親切でなかった。
・困ったことがあった時の相談体制は、十分ではなかった。
③2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・金額的に十分である。
・日本語の学習等は十分である。
・就職支援等は十分ではない。
・困ったことがあった時の相談体制は十分ではない。
④地域社会との交流はどのようなされているか。
・帰国者同士では、連絡を取り合っている。
⑤今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・2世への支援。
・3世への就労支援。
・2世と同居している帰国者が、2世世帯の収入認定額が上回っている場合、支援給付が受け取れないのは解消してほしい。自分の世帯の生活も苦しいので、親に金銭援助できないのが現状。2世と同居しても、2世の収入に問わず、すぐに支援給付を受けられるようにしてほしい。
・帰国者本人及び2世を都営住宅へ優先的に入れてほしい(同居)。
(筆者注:中国残留帰国者本人は100%都営住宅優先で入居できる。)
中国残留帰国者の就労については、就労先が見つかりにくい、各自治体でも、就労支援制度ができていない現状がある。日本へ帰国しても、配偶者が日本社会へ適応できず、それが原因で別れてしまうケースも多いという。
事例③ 40歳 女性
中国語、日本語が堪能である。
母親は中国残留婦人、父親は中国人で2人兄弟。
1978年、10歳の頃に父、母、兄の4人で帰国し、足立区に住む。
中国での暮らし向きは、豊かな方であったという。
日本の小学校、中学校、高校、短期大学を卒業し、民間企業へ入社したが、仕事をいったん辞め、中国の大学へ留学をする。
最初の職場で、日本人の夫と結婚し、3人の子供に恵まれる(現在、小学5年生〜保育園児)。
現在は、高齢になった帰国者の役に立つことができればと思い、足立区の中国残留帰国者の支援相談委員に応募し、採用され活動している。
アンケート
①帰国後、苦労した点、困った点は何か。
・言葉の問題。
・生活習慣の違い。
②2008年3月までの、帰国者への支援制度についてどう思われるか。
・金額的に十分でなかった。
・日本語の学習等は、十分だった。
・就職支援等は十分でなかった。
・生活保護の制度は、よかった。
・困ったことがあった時の相談体制は、十分ではなかった。
③2008年4月以降の、新制度についてどう思われるか。
・金額的に十分である。
・日本語の学習等は十分である。
・就職支援等は十分ではない。
・困ったことがあった時の相談体制は十分ではない。
④地域社会との交流はどのようなされているか。
・積極的に近所の方とお付き合いをしている。
⑤今後、国や足立区に望むことは何ですか。
・制度ばかりではなく、老後安心して過ごす事ができる環境を作ってもらいたい。
この女性の場合は、中国残留帰国者2世であっても、日本語が母語であり、中国語は成人になってからマスターしている。大手の会社に就職でき、通常の日本人と同じように生活をしている。
事例④ 61歳 男性
日常会話は中国語で行うが、日本語も十分に話せる。
1947年に、中国残留婦人(看護士)の母親と、中国人(医師)の父親の間に生まれる。(3人兄弟。)
1966年、文化大革命がはじまった頃(高校3年生)、大学入試を控えていたが、政府機関の命令で北京の工場に派遣され、鉄板をプレス加工する単純作業を8年間強いられた。
1978年、文化大革命が終わった頃、入試が再開され、31歳で北京医科大学に合格した。
大学を卒業間近、「日本で最期を迎えたい」と母親はそう言って帰国し、東京の親類宅へ身を寄せる。
本人は、中国に残り、医師免許を取得、また、中国人と結婚した。
1986年、医師になった3年後、母親から「心細いので来てほしい」という手紙が届き、年老いた母親を放っておけず39歳で帰国した。
日本語が全くできない中、日本語教室で9か月間学び、医療事務補助の職を得るが、家族を養うのに収入が足りず、労働賃金の高い、建設工事現場の解体作業等の仕事もした。
日本の医師国家試験を受け、日本で医師としての再出発をする為に、毎年、半年を労賃の高い仕事に充て、残る半年は勉強漬けの生活を送った。
(日本の医師国家試験を受ける為には、基礎医学の知識を問う予備試験に通った上で、1年以上の実習を積むことが条件となる。)
この間、中国で医師をしていた父親が、息子夫婦のために日本に来日し、日本で医師(父親は当時、満州国の医科大学を卒業していたため、日本の医師免許があった)の仕事をしながら生活を支えてくれた。
8度目の挑戦で、予備試験に合格し、1年間東北大学で実習後、1998年、国家試験に合格をした時には、51歳になっていた。
研修先の病院で、中国残留婦人の夫が肺炎で入院し、その対応をしたことがきっかけとなり、「残りの人生を中国残留帰国者とその家族に捧げよう」と決心し、現在に至る。
現在では、中国で看護婦をしていた妻(日本で准看護士の資格を取得)と一緒に、中国帰国者の支援のためのNPO法人を立ち上げ、また診療所を開設するなど、活躍をしている。
「人生の前半は中国人、後半は日本人として生きてきた。帰国者の二世として努力して医師の資格を取ったので、帰国者を応援する義務を感じてやっている」と、活動の源泉に帰国者という自身の体験があることを語っている。 医師と准看護士の資格を持つ夫婦で、中国残留帰国者のために、幅広く活動をしている。
聞き取り調査のまとめ
帰国した中国残留孤児は、現在60歳から70歳代、中国残留婦人は80歳代と高齢になり、介護が必要となってきている。
また2世、3世にも言葉の壁の問題があり、日本社会へうまく適応できない人が存在している。
2世3世は、帰国した年齢によって、その後の適応の差が生じている。
比較的早くに帰国したもの(幼少期)は、日本社会に適応し、成人後の生活は一般国民と変わりないようだ。また、ある一定の年齢で帰国をしていても、中国で大学等を卒業している者では、帰国後、語学力を生かした仕事に就き、自立した生活を送っている。
中国を母国文化として生活をしてきた人々は、言葉が通じない、生活習慣になじめないといった状況で、精神的な面での負担が大きい。
このことから、精神的な負担が肉体的症状に現れ、うつ病などの精神疾患を引き起こしている人もいる。
健康な精神を保つためには、定住した地域の理解と支援が必要である。
今回の調査を通じて、地域社会の役割として、各自治体が、今後、帰国者が地域に溶け込める支援策(老人館の創設、特別養護老人ホームの開設)、2世3世に対する就労支援策を早急に行い、地域の一員として、安心して第2の人生を過ごせる体制が必要であると感じた。