「子ども支援センター」をつくろう!
ルポ『子ども支援』、一番最初に取材した人だった 「政治とは、何だろう?」。 アメリカの地方自治を描いたドキュメンタリー映画を見て、そう思う。議員たちが、議場で朗々と交わす論戦が見事だった。地域の小さな問題に対しても、建国の理念まで持ち出す演説に、民主政治の底力を感じた。では、日本の、地元足立区の区議会議員はどんな雄弁を持つのか興味を抱く。全議員45人の資料を調べると、一番心をとらえたのが、長谷川たかこさんだった。発達障害がい児の支援事業で「ペアレントメンター制度」を東京23区で初めて事業化、中国残留帰国者問題への取り組み、「政策提言賞」の数々…。
当時、「子ども」と「地方自治」のどちらかのテーマで、足立区を拠点に何か書きたいと考えていた。しかし、何のツテもない。見せる記事もなし。それでも思い切って長谷川さんに取材依頼したら、快諾してくださった。以来のお付き合いである。ただ、記事は仕上げたものの、ある事情で公表できなかった。しかし、足立区内の子ども支援のネットワークにつないでいただく。このルポシリーズの恩人のお一人といえる。
あれから4年。長谷川さんは、次々と政策を実現させてきた。特に際立つのは、子ども支援関連。4人のお子さん(現在、25歳、22歳、6歳、4歳)の子育て経験を生かされている。
そして、2023年1月、民間による「子ども版包括支援センターをつくる会」の立ち上げに声をかけてくださった。第1回会合に出向けば、これまで取材した地域のキーパーソンが何人も。これもご縁と思い、改めて長谷川さんにインタビューを申し込む。 「少数者」の声から発想し、提言を練り上げる政治家 足立区議会の定例会には、これまで何度か足を運んだ。壇上に立つ長谷川さんの言葉は、いつも密度濃い。市民、少数者の立場から発想し、入念なリサーチに基づく提言が具体的で実効性があるのだ(ところで、市民たるもの、一度は地元の議会を、頭から終わりまで傍聴し、さまざまな議員の発言を聞き比べてみることをおススメしたい)。
ある時、長谷川さんと市民が集う会合に出ると、地元のママたちの間を、子どもたちが駆け回っていて和む。不登校や学校の問題を抱える親たちが、自身の想いや、変えてほしいことを率直に話す場であった。長谷川さんは、現場の声をしっかり聴いて考える区議さんである。そして電光石火に動く。凄まじい集中力で政策を練り上げた後、実現に向けて、関係者に行政に、果敢にタックルしていく。数々の実績は、ホームページを見れば明らか。ここでは、政治家・長谷川さんの信条に力点を置いて書き留めた。
(長谷川たかこさんのインタビューは、2023年3月3日、北千住のレストランにて行った)
<インタビュー・長谷川たかこさん> 「足立区を、全国で一番の子育て環境に」
今、「異次元」と呼ばれる少子化対策が、次々打ち出されています。しかし、国の政策は、いつも通り一遍で理想論すぎ、当事者目線ではありません。私には4人の子があり、今も幼い子の子育て真っ最中です。そんな自身の経験を原点に、「足立区を、全国で一番の子育て環境にしたい」と、4期16年、足立区議会議員として奔走してきました。
これまで、子育て支援に関する、さまざまな請願を議会に提出し、たくさんの政策を実現。自分が言い続けてきた提言を、子育て中の親御さんに説明し、賛同を得て、何千という署名を集め、超党派の議員たちの賛同も得て議論を重ねて、形にしてきました。
民間発の「子ども版 地域包括支援センター」設立に向け、動き出す
1月29日、民間発の「子ども版 地域包括支援センターをつくろう会」を立ち上げました。地域で活動されている有志に声をかけ、20数名で構成。「ヤングケアラー」「不登校」「青年期相談」「生活困窮」「いじめ」「医療的ケア」「発達障がい」「外国ルーツ」など、子どもに関する多岐にわたる課題を包括的に対応するセンターを目指します。イメージは、「高齢者地域包括支援センター」の「子ども版」。
実は、すでに足立区で「子育て世代包括支援センター事業」は運営されています。保健予防課や区内各保険センターなどと「子ども支援センターげんき」が連携し、妊娠期から子育てまでの相談・支援を切れ目なく包括的に行うもの。しかし、制度の認知度が低く、利用者が少ない。また、例えば「いじめ」「不登校」などで相談を持ち込んでも、対応に時間かかかり、適切な機関や専門家につながりにくい。
助けを求めて助けてもらえなかったら、何の支援にもならないわけです。行政側が無理であれば、私たち市民が作ってしまおうと、この会を立ち上げました。メンバーは、子ども・親支援、いじめ、不登校、居場所づくり、児童発達、医療的ケア児などの分野のスペシャリスト。「自分たちで立ち上がろう」という情熱的な人たちです。まずは、その各メンバーが、各カテゴリーごとの専門分野の人たちを集めて分科会を組織し、何が問題で、どう解決できるかを深堀りする。その後、どういう仕組みをつくればいいかプランをまとめ、足立区、東京都や国に提案する予定です。
拠点は、ますは一般社団法人「チョィふる」さん(vol.23 代表・栗野泰成さん)が、提供してくれることに。栗野さんの「どんな境遇に生まれても、ロールモデルになる大人が傍にいることで、子どもは成長できる」という考え方に共感し、共に活動しています。
「政治」が身近にあった家庭環境で育つ
私は、1973年、神奈川県鎌倉市長谷で生まれました。幼い頃から「政治」が身近にあったといえます。父方の曾祖父・天本龍之介は、佐賀県本基山町長を30年勤めた政治家。母方の祖父・遠藤賢二も神奈川県鎌倉市薬剤師の初代会長で、政治活動をしていました。ただし、父親は野村證券に勤務していた会社員で、政治とのかかわりはありません。
私が政治の道に進むきっかけとなったのは、中央大学に通っていた4年生、21歳のとき。1993年、伯父が建設省で大臣官房審議官を務めていましたが、当時、新進党からお声がかかり、参議院の補欠選挙で佐賀県から出馬しました。伯父が参議院選挙に出ることとなり、私が佐賀県に行き、選挙活動を手伝いました。当時、新進党の愛野興一郎先生や、羽田孜先生(愛野先生や羽田先生はご夫妻でわれわれの面倒を見てくださり)はじめ、二階俊博先生らが毎日常駐して指揮を取り、まさに自民党との一騎打ちの政党選挙となりました。たくさんの国会議員と秘書が集まり、選挙は目を見張るほどすさまじいもの。選挙が終わり帰宅すると、複数の代議士から「秘書にならないか」とお誘いを受けましたが、当時、間もなく結婚するつもりだったので、すべてお断りしました。政治の世界にかかわれば、子どもを産んで、子育てなんて、とてもできないと思えたからです。
1996年、大学を卒業した23歳、法律事務所に勤務。同年に結婚して以降、出産から子育てまで、足立区で経験することに。
アイデアマン名市長の岩國哲人先生が、わが師匠
2番目の子が生まれた27歳のとき、心境が変わりました。「私の人生、このまま終わらせたくない。世の中に出て、何か貢献したい」という気持ちがわき上がってきたのです。 2004年、31歳のとき、かつてお誘いを受けていた当時衆議院・岩國哲人先生(元出雲市長)に、「お手伝いをさせて下さい」と手紙を書き送りました。すぐに連絡があり、議員会館へ。「明日にでも議員会館に勤めてください」と即、採用に。この職場で、雇用、介護、少子化、環境、教育、食育などの分野の政策立案と実務を行いました。 岩國先生は、私の師匠です。時間があれば資料に目を通される勉強家ですから、いろんなアイデアを思いつかれる。元は、出雲市の名市長です。温厚な方で、いつもにこやかでしたね。「国づくりは、人づくり」という教えは、私の指針になっています。 2年勤めて退社し、「もっと学びたい」と青山学院大学大学院に入学。ビジネス法務を専攻しました。そして、34歳のとき、統一地方選挙が、私の人生を変えました。
「子育て中の若いママ」として足立区議に初当選
住んでいる足立区は、衆議院だった城島光力先生の選挙区でした。当時、城島先生は朝の駅頭に立たれており、私もお話をさせていただいておりました。いつの間にか、岩國先生と城島先生が話をされていたようです。統一地方選挙が近づき、白羽の矢が飛んできました。
いつも私には、さまざまな夢があります。同時進行でいろいろなことをやって、その中で最適なものを直観で選択していました。あのとき、政治の世界がそうでした。
選挙活動を始めたときは、なんのツテもありません。街頭で訴えていたのは、「子育てしやすい街づくり」です。キャッチフレーズは、「生まれて安心 暮らして安全 歩いて楽しい足立区に」。この言葉は、今も名刺に記しています。
結果は、足立区史上初の得票数7830票のトップ当選でした。「子育て中の若いお母さん」が出てきたことが、区民のみなさんにとって、新鮮で、親近感を持っていただいたのでしょう。特に、同世代のママさんたちが、たくさん応援してくれました。また、スーパーの前でビラを配っていると、若い男性たちが声をかけてくれ、仲間の20人で、足立区全域に私のビラを撒いてくれたことも。ふだん政治とかかわらない人が、一緒に行動してくれたことが、何より嬉しかったです。
「ユニバーサルデザイン」の発想は、少数者の声から
足立区議会で最初の代表質問が、2007年12月。「私は、何を問えばいいのだろうか」と、ノイローゼになるほどに悩みました。選挙活動中や当選後に聞いたにいろんな人の声を思いめぐらせ、考え抜いたのが、「カラーユニバーサルデザイン」の提言です。後に、「行政・街づくりへのカラーユニバーサルデザインの導入」の施策として事業化。街中や公共施設の案内板、標識、印刷物などを、色弱者にも分かる色使いのデザインにするというもの。これを思い至ったのは、ある色弱者の男性との出会いからです。
思えば世の中は、多数派の色づかいに統一されてきました。色弱者からすれば、見えづらく、住みにくい世界なのです。それを多数派、少数派かかわらず見やすいデザインにすれば、どんな人でも住みやすい街になる。歳をとれば、白内障や緑内症を患いがちな年配の方々にも、優しい色づかいになります。
その実現のために、私は、毎回毎回の代表質問で、何度も粘りつよく政策提言しました。当初は「カラーユニバーサル」自体が知られていなく、その概念から説明したものです。担当の部課長さんのところに突撃訪問し、その意義を話したこともありました。努力のかいあって、1期4年で提言が実現し、足立区が「カラーユニバーサル先進区」として、全国的に注目されるように。
「ユニバーサルデザイン」という考え方を、「子ども支援」にも広げました。発達障がい児に対応できるユニバーサルデザインの視点を取り入れた教育を通常学級の中に導入。2022年4月から足立区中学校3校( 鹿浜菜の花中学校、東綾瀬中学校、谷中中学校)、小学校では2校(鹿浜五色桜小学校、綾瀬小学校)がモデル校として、通常学級への導入が先行実施されています。2024年度4月からは、足立区全小中学校にユニバーサルデザインの教育が導入される予定。「足立区版ユニバーサルデザイン」の教育が実施されることで、特性のあるなしに関わらず、配慮された環境と誰もが分かりやすい教育内容が展開されます。
実行して効果が分かりやすい政策は、「制度」にできるということ。その政策の元になるのは、少数派のレアケースなんです。といっても、1人や2人の問題ではなく、その背景には困っている人がたくさん存在します。だから、みんなの制度になり得るのです。
発達障がい児の親支える「ペアレントメンター」を東京初で事業化
発達障がいに関する支援事業の立ち上げを進めたのは、発達障がいを抱え悩むご家族を目の当たりにしたことがきっかけです。発達障がい特性のある子どもの親が、同じ立場の親をサポートする「ペアレントメンター事業」は、東京23区で初めて立ち上げに成功しました。
問題意識を持った当時、「発達障がい」という言葉も一般的でなく、私にとって未知の世界でした。「どんな解決策があるのか」と、自分の足で全国各地を行脚。施設、病院、自治体、NPOなど、全国各地、電車を乗り継いで視察を重ね、2年越しで提言を練り上げました。
お子さんに、発達障がいの特性が見え隠れしていても、親御さんは、対処法が分からないものです。同世代の親にも知識がない。保健所へ相談することも思い至らない。不安が積もり積もる。保育園や幼稚園の先生から、何か言われて、さらに傷ついてしまう…。もうそんなケースをたくさん見てきました。私なら、適切なアドバイスができます。
「中国残留帰国者」も「外国ルーツ」の方も、親身に相談
中国残留帰国者の問題については、区議会議員1期目から、ずっと取り組んでいます。血縁の「故郷」は「日本」、育った故郷は「中国」という境遇のみなさんは、現在110世帯56名。その方々と直接お会いし、必要とされることを、ずっとうかがってきました。日本の文化や言葉を学ぶための施設や支援施設の視察、行政へのヒヤリングも重ねています。機関紙『ふるさと』の発行にもかかわり、居場所づくり、ネットワークづくりに協力させていただいております。
異文化を背景に持つ方々をサポートすることは、私の政治課題の一つ。少数者として日本の地域社会に孤立し、さまざまな壁に阻まれることが多いからです。
先日は、私の娘が通う幼稚園のママ友で、スリランカ人の方の相談を受けました。ビザが更新できず、あと1カ月で帰国しなれけばならない。観光ビザで入国後、難民申請して就労され、4年越しで日本に滞在、お子さんもいる。その方は流山市在住なので流山市役所に足を運び、支援を求めましたが、今のところ状況ははかばかしくありません。彼女の方が「日本大好き!」なんていつも笑顔で言い、かえって私が先に参ってしまって…。
足立区民じゃない?…どこの方でも、相談に乗ります。 足立区民限定でなく、市町村も関係ありません!
「歩く相談員」として声を束ね、届く支援制度つくりたい
2015年に亡くなられましたが、私の後援会長だった野中徹也さんに言われたことがあります。「あなたは、区議会議員として人のために働かなきゃいけない。だけれども、軸足は常に自分の子どもに向けなさい」と。その教えをずっと守っています。人さまの支援をしながら、子どもにしわ寄せして不幸にする、というのはおかしな話ですよね。愛情を注いできちんと育てて得た、歓び、楽しさを体験してこそ、世の中の子どもも大切にしようと思う気持ちにつながってくるのかなと。
下の2人の子は、まだ6歳と4歳。日々、ハードワークなので、時折、夫が主夫となり、子どもの面倒を見てくれます。子育てについては、「愛情と栄養」がモットーです。
4人を育てて引き出しが増えたことで、人の子育てがよく見えるように。私は再婚して、2回目の子育てをしています。いろんなことを言われ、深く傷ついたこともたくさんある。助けてほしいことが、行政の支援に乗らなかったことも経験。だから、制度の狭間に漂ってしまう人たちの気持ちも、自分ごとのよう感じます。それをどうしたら解決できるかという方法や知恵を、長い議員生活で培ってきました。だからこそ、「求める人に届く」支援の仕組みを、行政の中につくることに、強い使命感を感じています。私はある意味で、「アドボケーター(代弁者)」であり、「歩く相談員」だと思っています(笑)。
みんなで一緒に気づき、声を上げていかないと、何事も変えられません。1人の声であっても、その悩みは多くの人が抱えている。議員の私がそれを束ねて、解決につなげます。諦めてはいけない。ネバーキブアップです。
(聞き手・ライター上田隆)
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