中国残留帰国者問題の研究 ーその現状と課題ー
第1章 中国残留帰国者とは
中国残留帰国者とは、終戦時に旧満州国を含む中国大陸に取り残された日本人ならびに日本人の子、いわゆる中国残留邦人が、戦後長い時間を経過した後、国の政策(一部は、自力)により帰国してきた人々のことを指すことは言うまでもない。
ここでは、そういった言葉の定義でなく、日本社会とりわけ国の制度をみることにより、日本政府が中国残留邦人(帰国者)をどのように捉えているかを、制度上の変化をたどりながら明らかにし、さらなる課題が必要であることを論証する。
西ドイツ(ドイツ連邦共和国)は、第二次世界大戦後、ヨーロッパの中でも最も著しい経済的成長を遂げてきた。
その中で西ドイツには、東ドイツ(ドイツ民主共和国)、ソ連、ポーランド、ルーマニアなど東欧諸国からの第二次世界大戦前のドイツ国民の移住が果たした役割は大きかった(1)。
東ドイツからの移住者については、ベルリンの壁の建設までに約2600万人が移住したとされた。文字通りドイツ国内の「移住者(Übersiedler)」の扱いをし、移住申請者1人あたり200マルクの移転手当てをはじめ、当面の生活費の補助が支給された。
また、ソ連やポーランド、ルーマニアなどの戦前の旧ドイツ領に居住し、かつてドイツ国籍を有していた者、あるいはその子孫も「帰還者」(Aussiedler、なお1945年以前のドイツ領であったポーランド、チェコの一部からの移住者は「追放された者」Vertriebeneという)として、「移住者」と同等ないし、それ以上の保護が与えられてきた。
ここで、特筆すべきは戦前の旧ドイツ領に居住した者およびその子孫に対して、東ドイツからの帰還者であるドイツ国民以上の保護を行っている点である。
これは、東ドイツ以外からの帰還者は、ドイツ語を話せず、これらの国に組み込まれていた人々は、ドイツ人であるために差別を受けていたものも多いからである。
そのために、政府も東ドイツからの移住者に与えた以上の配慮を行ってきた。
同じような境遇にあったといえる日本人である「中国残留帰国者」に対して、日本政府は、どのような対応をとったのであろう。
それは、戦前の旧ドイツ領で暮らし、かつてドイツ国籍を有していた人々への手厚い保護とは対照的であった。
1972年の日中交正常化後、中国残留邦人の調査・帰国が現実的になってきた当時、日本政府の行った措置は、中国に取り残され、苦難の道を歩んできた自国民に対する保護政策とは到底言いがたいものであった。(詳しくは、第2章1節で後述する)
日本政府は、1973年には、帰国しようとする中国残留邦人について、留守家族が身元保証人になることを要件とした上で査証を発給した。しかし、肉親捜しがうまく進まなかったり、肉親を捜しあてても、受け入れる肉親側の経済的な問題や帰国後に予想される面倒などのさまざまな問題により、帰国に同意せず、身元引受人になってもらえないために永住帰国はもちろん、一時帰国すらできない場合があった。(2)。
また、1975年には、帰国時にいったん外国人登録をさせ、日本への召還時に外国人として取り扱う方針を決めた。
これは、中国残留邦人を日本国民でなく外国人として扱った紛れもない事実であり、中国残留帰国者らによる訴訟のひとつである高知地裁(2007年6月15日判例集未登載)の判決でも、日本国籍を有するかどうかの調査を行わず、国が上記のような方針をとったことは、「国籍調査義務(早期帰国実現義務の一部)違反である」と判断している。
このように、日本政府の対応は、帰国時に中国残留帰国者を自国民でなく、外国人扱いをしたばかりか、帰国後の自立支援においても、多くの帰国者が生活保護を受けていた事実、また全国で2000名を超える中国残留帰国者たちが、国を相手に訴訟を起こした事実などからも、十分な「自立支援政策」が行われていたとは言えないことは明らかである。
つまり、西ドイツにおいては、戦前の旧ドイツ領に残された人々を自国民もしくは、それ以上の保護の対象とし、自立を支援するとともに、ドイツ国民としての統合を果たしたのに対して、日本政府は、中国に残された人々を外国人扱いし、帰国後も十分な保護を行ってこなかったといえよう。
次章以降では、中国残留帰国者の歴史的背景、国が行ってきた政策、また2008年4月より始まった新しい支援政策などについて、詳しく見ていく。