中国残留帰国者問題の研究 ーその現状と課題ー

第2章 中国・樺太残留帰国者問題


2-1 中国(樺太)残留者問題の経緯


1945年の終戦当時、中国東北地方(旧満州地区)には、開拓団を含めて約155万人の日本人が居住していた。これらの人々の多くは、第2次世界大戦末期のソ連軍侵攻による中国東北部における混乱で、日本に帰ることが出来ず、中国大陸への残留を余儀なくされた。

終戦直前の1945年8月9日のソ連軍の対日参戦時には、壮年男子の大多数は軍隊に召集されたために、残っていた日本人は、老人婦女子が主体となっていた。
ソ連参戦後、これらの人々は戦闘に巻き込まれたり、逃避中の飢餓や疾病などにより、多く人が犠牲となり、また数多くは家族離散という悲惨な状況に陥った。

終戦後、ソ連により日本への帰国が制限されていたが、1946年から集団引き上げが行われ(一時期中断)、100万人以上の人々が帰国するとことなった。
しかし、中国国内の内戦の激化、またその結果誕生した中国共産党政権(1949年成立の中華人民共和国政権を指す)と、日本が国交を結ばなかったとこなどにより、1958年には集団引き上げは打ち切られ、多くの日本人が中国に取り残されることになる(3)。

このような混乱の中で、家族と離れ離れになり、中国人に育てられることとなった孤児や、生活の手段を失い中国人の妻となり残留を余儀なくされた残留婦人(残留邦人)は、その後も中国国内における対日感情や文化大革命の歴史の激動の中で、我々が想像もできないほどの苦労を重ねてきた。

その後、1972年の中国との国交正常化により、1973年から本人と配偶者及び20歳未満の独身者である子どもを対象とした国費負担による日本への帰国の道が開かれたが、中国では文化大革命の真っ最中であった影響もあり、大規模な調査・帰国などは、実現しなかった。

1981年3月、厚生省(当時)が中心となり、第1回中国残留邦人の大規模な訪日肉親捜しが実現し、訪日47名のうち、30名の肉親が判明する。その後、1980年代半ばの帰国ラッシュを経て、厚生労働省は1996年までに永住帰国希望者を全員受け入れる決定をした。 その背景には、1993年の中国残留婦人12人の強行帰国も大きな要因の一つであったと言える。
国の政策では、終戦時、13歳未満の者を残留孤児として、帰国の支援を積極的に行っていたのに対し、13歳以上の者を残留婦人とし、自分の意志で中国に残ったとして、帰国に対して十分な措置を取ってきたとは言えなかった。
この時、私費で強行帰国した12人は、日本国籍を持ち、国の一時帰国事業により一時帰国も経験していたために、日本のパスポートを所持していたが、日本の親族が身元引受人を引き受けなかったために国費による永住帰国が出来なかった。(厳密には、すでに1993年当時は、親族でなくても身元引受人となれる「特別身元引受人制度」が始まっていたため、制度上は永住帰国も可能であったが、12人全員がこの制度を知らなかったことが、後の調査で判明した。)
その後、強行帰国した12人に対して、国は、中国残留孤児定着促進センターへの入所や生活費の支給、一時金の支給など「国費帰国者」と同じ支援を決定した。
このことが、取り残されていた中国残留婦人の支援政策の見直しが行われるきっかけとなるとともに、永住帰国希望者全員の受け入れの決定につながったと言える。

1994年には、「中国残留邦人等の円滑な帰国促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(以下、中国残留邦人自立支援法)」が成立し、国と地方自治体による中国残留帰国者の支援制度が成立した。

しかし、中国残留邦人自立支援法の成立を受けて行われてきた自立支援策は、結果として十分な成果を上げてこなかったといえる。このため、中国残留帰国者の約6割が生活保護を受給してきたが、生活保護制度の運用として、時として人間としての尊厳を傷つけられることもあった。(第3章9節で後述する)





そのため、2003年9月24日には、約600人の中国残留孤児らが、帰国後も苦しい生活を強いられたとして、国に対して1人3300万円(総額200億円)の国家賠償法1条による損害賠償を求め、提訴した。東京、名古屋、京都、広島と一斉に各地裁へ提訴を行い、原告総数は2200人に達し、戦後補償裁判の中でも異例の規模になった。
戦後長年にわたって祖国への帰還措置を取らず、帰国後も適切な定着自立や生活保障などの施策をとってこなかったことが提訴の理由である。

国家賠償請求訴訟は、東京、大阪、徳島、名古屋、神戸、広島、札幌、高知などの15地裁で提訴されたが、神戸地裁(2006年12月1日判例時報1968号18頁)の判決のみが、残留孤児を生み出した政府の責任を認め、そのうえで政府の早期帰国義務違反、帰国後の自立支援義務違反を認めた。
しかし、その後の東京地裁(2007年1月30日訟務月報53巻4号893頁)の判決では、満洲への移民政策と原告らが残留孤児となったことの間に法的賠償義務の根拠となる因果関係がないとして、裁判所が戦前の国家政策を現行憲法の国家観・価値観によって評価・判断することは差し控えるべきであるとするなどの、きわめて後退した内容になっている。
神戸地裁で国の責任が認められた以外は、東京、大阪、徳島、名古屋、広島、札幌、高知など7地裁で原告が敗訴し、その後、控訴したが、2007年7月、政府・与党(与党中国残留邦人支援に関するプロジェクトチーム)が国民年金の満額支給などの新支援策を提示したことで、原告側は2008年4月までに訴えを取り下げている。

以上の裁判では、原告の請求が棄却されたとはいえ、判決では国の支援策が不十分であったことの指摘もあり(3)、2007年11月に新しい支援策を盛り込んだ「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進および、永住帰国後の自立の支援に関する法律の一部を改正する法律」が全会一致で可決され、成立した。
これに基づき、2008年4月から新たな「老齢基礎年金の満額支給」などを柱とした支援制度がスタートし、各地方自治体より地域生活支援プログラムの実施が盛り込まれるなど、支援の充実が図られることとなった。
このような中、1973年以来の国費による帰国者数は、2008年11月の時点で、永住帰国者が6393世帯20416人、一時帰国者が、5657世帯9407人となっている。